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STORY Part.2


競技生活の転換期〜安心してがんばれる環境に身をおいた4年間〜





高校3年の5月、高校生活最後の大会が終わり、”いま日本でハンドボールが一番強い大学”に進学したいという思いから本格的に受験勉強を開始し、勉強漬けの日々を送りました。家族からのこの上ないサポートもあり、無事に第1希望の大学に合格しました。

入学した当時、わたしはチームで一番で未熟で、一番下手でした。けれど、指導者の先生方、先輩方、同級生のみんなが、”大切なチームメイトの1人”としてあたたかく接してくれました。

優しい眼差しと心あたたまる人間関係、そして、やりたいと思ったことにすぐにトライできる物理的な環境、その中で常に「今のわたしにできること」をみつけ出し、それをその時わたしにできる120%でやる。そんなことを積み重ねた4年間でした。

時計係をやりきる。ドリンク係をやりきる。練習を最初から最後までやりきる。体力トレーニングをやりきる。スコア係をやりきる。自分で試行錯誤の時間(自主練)をやりきる。試合でコートに立てた時間をやりきる。コート上で自分の役割をやりきる。

そうして、2年時はベンチでスコア係として、3、4年時はレギュラーとして3度の日本一を経験しました。その時々で自分自身の120%をぶつけた日本一は、それぞれに違った充実感がありました。





暗闇の中を必死で駆け抜けた日々〜自分の価値がわからない、大好きだったハンドボールが楽しくない〜





大学を卒業後、実業団ハンドボールチームの選手の一員になりました。

4シーズン在籍し、チーム創設以来初の日本一を含む3度の日本一を経験しました。そして、日本代表選手としてロンドンオリンピックアジア予選・世界最終予選、世界選手権を経験しました。

実業団チームの監督はとても厳しい人でした。練習では、少しでもミスをするとはげしく責められました。時には上手くできていても、罵倒され、罰を与えられました。理不尽に感じ一度は声をあげましたが、その日を境に、罵倒や罰は厳しさを増すばかりでした。

怒られるたびに、わたしが悪いのだと思うようになり、自分は価値のない人間、なにか足りない人間なのかもと思うようになりました。

肉体的、精神的なしんどさから、だんだんと監督の機嫌をとるようになりました。失敗することが怖くて、自分の発想から自由にプレーすることができなくなりました。

”間違えないように””失敗しないように”とプレーを選択しているうちに「自分がしたいプレーが何だったのか」がわからなくなりました。

いつの間にか、夢中でボールを追いかけていた頃のわたしはいなくなってしまいました。
「わたしは一体何をしているんだろう」「誰かのロボットになってしまったのかな」と感じていました。

コート上で否定された時の言葉や態度が脳裏に焼き付き、寮にいる時間も、オフの日も、24時間365日、監視されているように感じるようになりました。

翌日のためにと早めに布団に入っても、びっしょりと寝汗をかいた状態で何度も目が覚め、熟睡できないまま暗い朝を迎えることがたびたびありました。

そんな日々のなか、なんとか日本一になることができました。優勝の瞬間、コートの真ん中でつくる歓喜の輪の中で、顔では笑顔を作りながら、心では「これでしばらくは怒られないな」と考えていました。その気持ちに気づいた瞬間の虚しさは今もはっきりと覚えています。

だけど、私には『オリンピックに出たい』というどうしても譲れない夢がありました。そのためには、なんとしてでも所属チームで認められ、試合で活躍し、代表監督の目に留まり、認められる必要があると思っていました。

「上手くなりたい、勝ちたい、オリンピックに行きたい」という強い気持ちが、いつの間にか「認められたい」という気持ちに変化していきました。「こうしたい」ではなく「こうしたら認められるかも」という不安由来の言動がふえていきました。

3シーズン目の年、ありがたいことに、日本代表選手に選出してもらい、オリンピックに挑戦するチャンスを得ることができました。

毎回の合宿や海外遠征、国際大会では、わたしにやれることは全部やろう、ここで得られるものは全部得よう、そんな気持ちで望んでいました。あの時の充実感は今でも色褪せることなく、わたしの心の中の宝物として残っています。

けれど、日本代表という場所は誰もがずっといられる場所ではありません。結果がほぼすべての場所だからです。

国内合宿には招集されても、大会・遠征のメンバーに入れないこともあります。遠征にはいけてもベンチメンバーには入れないこともあります。ベンチメンバーに入れても一度もプレータイムがないこともあります。コートに立っても目に見える形として結果を残せないこともあります。そして、多少世間の目につくことになることで、話したこともない誰かに評価され「わたし」について記事を書かれたりすることもあります。

人からの評価=自分の価値となり、自分で自分の価値を認めることのできなかった当時のわたしにとって、精神的な負担は知らず知らずのうちに大きくなる一方でした。

「がんばれるわたしは⚪︎」「うまく出来るわたしは⚪︎」「役に立たるわたしは⚪︎」と条件付きでしか自分のことを認めることができなかったので、より一層失敗することが怖くなり、失敗した自分のことを「最低」「消えてしまいたい」「価値がない」と思っていたのです。

同時期に、様々な事情が重なり、『早い段階で子どもを産みたい』と考えるようになりました。

けれど、そのことについて監督やコーチ、先輩や他の誰かに相談することができませんでした。相談してはいけないものだと思っていました。そんなことを言ったら、ダメなやつだと思われそうで、自分の価値がなくなってしまいそうで、嫌われそうで、認められなくなってしまいそうで、話すことができなかったのです。

子どもを産んで、選手として現役も続けたいという想いもゼロではなかったけれど、それを誰かに話すこと怖くて、そんなことを思っていることを知られるのも怖くて、自分の本音に向き合うことを避けて蓋をしました。

夫(当時彼氏)にも、両親にも、義理の両親にも、一部事情を話していた友人たちにも、そして自分自身にも”大丈夫なふり”をしていました。「もう決めたことだからいいのだ」と自分で自分を納得させた「つもり」になっていました。

そうして、ロンドンオリンピックが終わった年、選手を引退しました。



お読みいただきありがとうございます。

STORY Part.2では、わたしの大学時代から実業団選手時代について書きました。

STORYは、Part.3へと続きます。

Part.3では、選手を引退してから結婚、出産、子育て、そして現在に至るまでについてかいていきます。






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